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歌集『硝子の島』紹介2  川野里子歌集

 歌集『硝子の島』紹介 (その2)                                          川野里子    短歌研究社刊 ⑥ P153 ベッドがひとつ便器がひとつ日当たりの良き部屋ここに母は捨つべし ⑦P155  手摺りに縋りゆつくりと歩みゆく母はやがて吾なり吾が彼方なり    ⑥⑦高齢化社会を迎えた問題はまた未来の我々の問題であること。「姥捨て山」の問 題に回帰しつつあることを時には認めざるを得ないことなのだろう。 ⑧P130 父母が生きし戦争はつひに何なるか椿咲きては咲きては転がる ⑨P165 枇杷の木の繁茂ことしはすさまじく大日本帝国でありしこの国 ⑩P170 戦争の終わらぬ島の黒砂糖戦争忘れぬ母に買ひたり   ⑧あの戦争は何だったのだろうか。経験となっているのだろうか。椿の花が咲いて、ぽろりと花が落ちるように忘れ去られているのでは無いか。   ⑨枇杷の木の繁茂=大日本帝国(軍国主義)を暗示してかつてのように戦争をする国へと移行するのでは無いか、今年は特にそれを感じたという危機感を詠む。   ⑩「戦争の終わらぬ島」沖縄の黒糖を、あの戦争を生きぬいた母のためにお土産として買った。戦争の終わらぬ島という表現に胸が痛む。いずれも危うい時代にさしかかっている。  ⑪P173 家族なりし時間よりながき時かけてひとつの家族ほろびゆくなり    ⑪崩壊して行く家族はとても痛ましいがこれも現実。「家族なりし時間」=子育ての時期とあえて捉えたのだが、慌ただしくも家族として行動していた時間は20~30年。子どもが独立して、その後の核家族は徐々に家族という形態は緩んで滅んで行くように見える。以前の多世代で構成する家族は再生産する家族であったが、内館牧子の小説「終わった人」のように現在は滅びを迎えるだけの荒涼とした時間だけが進んで行くのだろう。  日常に潜む問題を提起している作品である。原発、セクハラ、パワハラ、親の介護、戦争、果ては家族の崩壊問題について作者の把握力、問題意識の高さ、想像力に教えられるところ大であった。

歌集『硝子の島』紹介 川野里子歌集

 歌集 『硝子の島』の紹介  (その1)                川野里子      H29.11.10  短歌研究社刊  新聞・雑誌等で種々の作者の活躍を目にするところであるが、本歌集をを読んで感動を深くしたので、感銘した歌をあげて、歌集『硝子の島』を紹介したい。(Pは掲載ページ) ①P23 エレベーターの上昇下降からうじて墜落せぬを暮らしといふか ②P25 重たいなあどおんと落ち込み立ちなほり自分を背負ひ歩きだすとき  ①エレベータもまがり間違えれば落ちることもある。ここでは「からうじて墜落せぬ」日常と日常にある危険を暴き出し、日々の暮らしが保たれていることを信じる人の日常生活に疑問を投げかける。鋭い感覚だ。  ②社会生活を送るとき、「どおんと落ち込む」ことはしばしばである。そこから立ち上がり歩き出すときのつらさ、体の重いことに共感できる。落ち込んだままになってしまいそうな私にはこの表現にもつらく苦しい。  ③P61 爆風のやうに桜花は白く咲き三度目の原爆かくもしづけき  ④P70 ゆふぐれに思へばオセロの白い石、原子力発電所島国かこむ   ③(2011..3.11)桜咲く春、福島に3度目の原発が落とされたのだ。福島の原子力発電所の事故は3度目の原爆だったのだと、作者に教えられ事故だと片付けられない問題を含んでいると認識させられた。この表現は動かしようが無い。今も避難者数万人も存在する。   ④原子力発電所が海辺に設置されている。それはオセロの白い石のように配置され、白から黒い石へいつひっくり返るかまたいつ事故が起こるかわからない。そのとき島国の人は逃げようが無いのだ。  ⑤P108 星一徹ひつくりかへす卓袱台を台詞なくつねに拭きゐし明子    ⑤セクハラ問題に揺れる現代に繋がる1首。服従をする性としての明子、何も言わず言えず、忍従するばかりである。現在も女性の地位は変わったとは言えない状況である。女性の地位の低さは世界で110位以下とか。どうしたらこの国は変わるのだろう。変われるのだろう。

5月の植物図鑑

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ビヨウヤナギ/おとぎりそう科 中国原産 庭に植えられる落葉低木、おしべ多数、花糸が長く愛らしい。白居易の「長恨歌」に  太液の芙蓉未央の柳此に対ひて如何にしてか涙垂れざらむ と楊貴妃の美しい眉にたとえた未央柳の一説にちなむ  ケムリノキ/うるし科  スモークツリー・ハグマ(白熊)の木ともいう。 ヨーロッパから中国に分布。雌雄異種の落葉樹。雌の木の枝先に花後に伸びた花柄が遠くからは煙がくすぶっているように見える、不思議な花だ。 シロタエギク/きく科  南ヨーロッパ原産。茎や葉に白い繊毛があり、白銀色に見える。 ムラサキシキブ/くまつづら科  山野に生える1.5~3m位の落葉樹。淡紫色の香りのある花を多数つける。秋に紫色の実をたくさんつける。 ブタナ/きく科  ヨーロッパ原産 帰化植物。和名のブタナはフランスでの俗名(ブタのサラダ)を翻訳したものから 。葉と茎は食用。それにしてもかわいそうな不細工な花の名前!。  アナベル/ゆきのした科 北米原産のあじさいの仲間。花持ちが良く夏から秋にかけて長期間花を楽しむことができる。

5月の植物図鑑

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ワルナスビ/なす科 ナス科の多年草 アメリカ原産の帰化植物。茎や葉に鋭い棘が多く、地下茎を張って広がる。鬼茄子ともいう。 イヌホオズキ/なす科 茎はまっすぐに立ち、よく分枝して高さは30-60cm まばらに短い毛を生じるが無毛のこともある。バカナスともいう。  あじさい各種 カシワバアジサイ/あじさい科(ゆきのした科) あじさい・ほんあじさい  がくあじさい すみだのはなび スイセンノウ/なでしこ科 フェルトのような質感の葉っぱと鮮やかな紅色の花が特徴。30cm~1m

所沢市出身の三上(高川)文筌 3 

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所沢市出身の 三上(高川) 文筌 (その3) ①   松代藩医師高川家に養子 高川文筌、森嶺 と名乗る。 松代藩の 8 代藩主真田幸貫は定信の次男で、老中・海防担当に就任、佐久間象山ら若手を登用、名君の一人にあげられた人物で書画を愛した。幸貫と文晁の用件を繋いだのが江戸住まいの松代藩側医師の高川楽真で足繁く文晁の元に通った。この時文筌の人となりを知って養子に迎えたと考えられる。また、文晁、嫡子文二が 1841 , 1850 年に相次いで亡くなったことも養子となるに背を押したのだろう。娘婿として養子に入ったのが 1850 年嘉永 3 年である。「森嶺」として医師となった。絵の要請も高川森嶺宛になっている。前述の御納戸日記には嘉永 5 年 10 月幸貫の病気治療の褒美として高川森嶺に金 200 疋を与えたと記録されている。            ②   黒船来航-開国の大事件に立ち合う 1854安政元年ペリー再来航では松代藩と小倉藩が横浜応接場護衛を命ぜられ、松代藩から佐久間象山が軍事役、 文筌 が医師として派遣された。 文筌 は全権大使浦賀奉行伊沢政義の付き添い医師として重要な場に臨席できた。 身近に米国使節団に接し、一連の黒船来航絵巻(亜米利加使節饗応之図、米国使節ぺりー渡来絵図写生帖、ぺりー渡来絵図貼交屏風、横浜応接場秘図、浦賀紀行図等)を描き、 高川 文筌 として広くその名を知られた。 象山は応接場の護衛軍事役で藩士宛ての手紙に「 文筌 が一行の肖像を描くとアメリカ人たちがそれを見て『ぶんせんぶんせん』と繰り返し名前を呼んだ」と書いている。                  黒船来航絵巻より ③   その後の文筌 文筌 の没年は 1858 安政8年となっているが、前年1857 年松代藩は横浜応接場警護後に品川岱台場の海防を命じられ 文筌 も勤番になっている。  生年が 1818 年であるから若干40歳の生涯を閉じたわけであるが、死因については詳らかではない。                      ( 登坂宏氏資料より引用)

5月の植物図鑑

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ヨウシュヤマゴボウ/やまごぼう科 野生化している多年草 アメリカヤマゴボウともいう。  コバンソウ/いね科 「コバンソウ」豊かな気分、名前がいいね。  ムギ/いね科 麦秋 現在なかなか見られない風景 この太陽の匂い いいね!  キツネアザミ/きく科  和名は牧野富太郎によると「アザミに似るがよく見るとそうではなくて、狐に騙され  たよう」に感じるから。  ノハラアザミ/あざみ科 総包が粘らない。(粘るアザミはノアザミ) グンバイナズナ/あぶらな科 ヨーロッパ原産の帰化植物。直立して軍配状の実をたくさんつける。 10~60cm ぺんぺん草もこんなに大きくなるんだ。  ドラセナ・コンシンネ/りゅうぜつらん科   長年育てたドラセナ、大きくなって天井につくようになってしまいました。どこで切って良いのか迷いながら思い切って剪定してみました。切り落とした枝は植木鉢に挿しましたが、早く芽と根を出してほしい。切り戻しの枝段差をつけた方がいいのかな。

戦国滝の城祭り

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第7回 戦国滝の城祭り  連休に、上田城(4/29)の武者行列に俳優の草刈正雄が颯爽と登場し、次いで火縄銃の実演を上田城で見学したので、滝の城祭りも見てみようと出かけた。 上田城(4/29)、大阪城(5/1)など各地で武者行列などの祭りが行われている。 5/20(日)晴天のさわやかな陽気で気持ちの良い1日。地元の皆さんががんばって盛りだくさんに、祭りを行っていると思いました。精査しても良いのではと部外者の意見。 (滝の城 一五世紀後半に大石氏築城→1546北条氏照に引き継がれる→1590浅野長政の攻撃を受け落城。)

所沢市出身の三上(高川)文筌2

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所沢市出身の 三上(高川) 文筌  (その2)  生い立ち 下宿(現所沢市御幸町)の問屋「坂下の三上家」生まれ( 名は平蔵)  平蔵は江戸下谷の谷文晁の画塾「写山楼」(門弟に渡辺崋山、江川担庵ら)に入り師の一字をもらい 文筌 と名乗った。門人一覧には(野村文紹作)には 武蔵所沢産 初称平蔵 実性三上。物故書画家人名辞典には ?-1858 名は惟文、字は森嶺、雅号  文筌 、可学斎、水竹居と書いてあるが、生い立ちや谷文晁入門の経緯等は皆目資料がない。 ①     松代藩依頼の絵 松代藩の(御側御納戸日記)によれば 8 代真田幸貫が頻繁に谷一門に絵を依頼している。谷文晁本人、文一(養子)、文二(実子)に混じって三上 文筌の絵もある。 1839(天保 10 年)「北斗之画」三上文筌(褒賞300疋)1840天保 11 年「襖波之絵」谷文筌(褒賞800疋)、1846弘化 3 年「日光表江被召す連」伊沢美作守 家来-三上文選(褒賞 5 両)である。 最後のものは 8 代藩主幸貫の日光参詣に同行し、自草加至日光真景図、光山裏滝観音図等多くの絵を描いている。 ( 8 代真田幸貫の絵)                        真田幸貫の像 ②   長崎で書いた絵  唐蘭館図巻1843天保 14 年の存在も知られている。原図には長崎官邸水竹居主人文筌 三上姓(この時の長崎奉行は伊沢政義)                               唐蘭館図より 追加 所沢市上山口 金乗院奉放光寺(山口観音)扁額 富士巻狩図大絵馬(天保9年 1838)  

5月の植物図鑑

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タイサンボク/もくれん科 庭に植えられる常緑樹。若かりし頃友人が、「泰山木2,3本を植えられる家に住みたい」といっていたのが忘れられない。相当な邸宅でなければ2,3本は不可能であろう。 ドクダミ/どくだみ科 道ばた、原野に生える多年草。十薬ともいう。草全体に独特の臭いがある。十字形花、シンプルな花として愛好する人も居る。 センダン/せんだん科 暖地の海辺や山地に生える落葉樹。5月中旬に枝先に淡紫色の花を集めて開く。古名オウチ(あふち)の花。花にかすかな香りあり。 久しぶりに「枕草子」をひもといてみた。 「木のさまにくげなれど、あふちの花いとをかし。かれがれにさまことに咲きて、かならず五月五日にあふもをかし」 ヤブレガサ/きく科 山地の木陰に生える多年草。茎は直立し50~100cm。春新芽の頃「やぶれ傘」に似た不思議な姿をしている。 コウホネ/すいれん科 黄色の花が輝いていた。 多年草。 スイレン/すいれん科 ピンクの花  コウホネ、スイレンの 葉の違いがわからない?。  ナツグミ/ぐみ科 ちょっと摘んでしまいたい懐かしいグミ。 キショウブ/あやめ科 西アジアからヨーロッパ原産帰化植物。 環境省により「要注意外来生物」に指定されている。生態系に与える影響や侵略性が高 いとされている。準日本風な風情を楽しんでいるのですが… 帰化植物とは意外。

所沢出身の絵師 三上(高川)文筌

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所沢生まれの絵師 三上(高川)文筌(ぶんせん) について(その1)  所沢市御幸町にある坂稲荷神社殿装飾画(1837年 天保8年作)市指定文化財 が 三上 文筌 によるものであり、幕末に黒船やペリー提督を描いたり、浦賀で饗応図を描いたりと写真のない時代に貴重な記録絵を残している所沢出身の人がいることをことを知った。  詳しく本で調べようとしたが容易には見つけられず、一般に知られていないようなので、講演会で聞いた概略を紹介する。(以下元町在住の登坂氏 人物相関図引用) 1818年(文政元年生まれ)            太字 文筌(ぶんせん)の描いた絵    ↓  ?谷文晁入門    「所沢にある絵」                  「松代藩、その他の絵」」                          1837年坂稲荷社殿絵                 1838山水図下絵                         1838金乗院絵                           1839山水人物図     ↓                                                               1839北斗図                                                                        1840襖波図 1840谷文晁没                                               1843長崎唐欄     (天保11年)  1847光英寺仏図                       1846日光各種絵     ↓  1850松代藩                                                1851世界人物録  医師高川家養子「松嶺」                                    1852聖像      ↓  1853ペリー来航4隻            全権大使4名ー伊沢美作守    1854再来航9隻                        饗応図 、ペリー図、黒船等多くの作品    ↓ (日米和親条約、

高麗神社周辺散歩

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高麗神社・聖天院散歩(高麗駅から高麗神社往復約8km) 高麗駅前の「将軍標」将軍標とは北朝鮮、韓国の村落に見られる魔除けのための境界標。 駅前の将軍標と高麗神社・聖天院の将軍標の位置の違いが気になった。 高麗神社の「将軍標」  高麗神社  高麗家住宅  聖天院 前面の2本の柱は「将軍標」 せんだんの花  (古名)オウチ 普通は大木になるので、遙か上空で花が咲いているのを見上げることが多く、このように近くで見ることはなかなかない。花の繊細な香りが漂っていました。しかし「栴檀は双葉より芳し」の栴檀は白檀のことらしい。(ちょっと残念!)  ばいかうつぎの花 「うつぎ」とつく名前の花がたくさん咲いています。ハコネウツギ、タ二ウツギ、バイカウツギ、ノリウツギ、ウツギ、マルバウツギ、ツクバネウツギなど

三ヶ島葭子 資料編

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三ヶ島葭子資料     (その11) 家族構成  父三ヶ島貫太郎は、三ヶ島尋常小学校長ほか埼玉・東京の小学校長を歴任、このため一家は転居を多数行っている。  葭子の実母さわは三十歳で逝去。同母弟1人。継母のぶは小手指村の小暮家より嫁し、異母弟2人、異母妹2人。異母弟に俳優の左卜全がいる。 葭子年表             満年齢 明治19年(1886)0歳 入間郡三ヶ島村に生まれる。 明治25年(1892)6歳 小手指尋常小学校に入学 明治35年(1902)16歳 埼玉県女子師範学校に入学、寄宿舎生活 明治37年(1904)18歳 結核のため3年で休学、翌年退学。病気静養に尽くす。 明治41年(1908)22歳 西多摩郡小宮村で小宮尋常小学校の代用教員となる。 大正3年(1914)  28歳 小宮尋常小学校退職。 倉方寛一と結婚 長女みなみ出産。 大正5年(1916)  30歳 葭子病気再発。長女みなみを所沢の夫の両親へ預ける。 大正13年(1924)  38歳 脳出血を起こし半身不随。その後回復。 昭和2年(1927)  40歳 3月26日自宅で死去。(40歳7ヶ月)                                       墓地は所沢市元町の実蔵院  「少女号」表紙   大正12年10月号    大正12年3月号 「少女号」大正15年4月号掲載作品と挿絵

所沢出身の三ヶ島葭子 「書簡集」より

(その10) 葭子は 始め「女子文壇」「スバル」などに短歌・散文を発表していたが、親友の原阿 佐緒の紹介でアララギに入会、島木赤彦 ( 本名 久保田俊彦 ) に歌を見てもらっていた。大 正 10 年原阿佐緒と石原純との恋愛をかばったために、赤彦からアララギを破門された。 破門を告げられたその際の手紙の返信内容に、葭子の誇り高い精神の強さが感 じられる の で人柄を読み取る一助にと、葭子の「書簡集」より引用してみる。  大正 10 年 10 月 10 日消印 久保田俊彦(島木赤彦)宛手紙より抜粋 先日は ( 以下 2 行省略 ) あまり御丁寧な御言葉なので御手紙の旨がはっきりと承りかねるのでござい ましたが、あまりつまらぬものばかり御目にかけてゐたのと、もう一つには 私が近頃友人原阿佐緒さまと近しくしながら真実を尽くさなかったことなど が、先生の御心を傷つけた原因かとお察し申すのでございますが、それでし たら全く私の至らなかったためでして、先生に一方ならぬ御心配をおかけ申 したことを今更何とも申しわけなく存じております。そしておつしやていた だくべきことをおつしやていただきましたので、私としては却って先生の御 真ごころに接しえた喜びを以て、かげながら御健康を祈らせていただきま す 。愚かなものによって害われた先生の御不快とお悩みとに比べては拙い歌 の見ていただけない悲しみなどかすかなものと存じておりますから、無感覚 を装ふのではございませんが、御放神のほど願上げます。何ですか又失礼の ことを申し上げたやうな気もいたしますが、御挨拶いたさぬのも失礼と存じ 一寸お邪魔いたしました。  (注 葭子の手紙は毛筆のため、句点を適宜追加した。)

国際バラとガーデニングショウ 花の絨毯

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国際バラとガーデニングショウのボランティアとして花の絨毯作りに参加しました。 4種類の花の絨毯 スペイン=フラメンコ メキシコ 日本=風神雷神 イタリア=太陽  バラの花6万個を使い、ほのかなバラの香りに包まれた花絵制作はとても楽しかった。  スペイン  メキシコ  日本  イタリア  ハンギング部門大賞  ガーデン部門大賞  信子妃殿下  鉢植え部門大賞 印象的なバラ