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川越に昔忍者がいた(川越歴史博物館)

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2019.2.6 河越に忍者がいた 川越氏にゆかりのある資料を紹介 川越にちょっとした用事があり、たまたま前を通ったので「川越歴史博物館」に寄って見学した。そこで今人気なのが、忍者に関する展示だそうだ。海外の人も訪れるという。 川越城にも「忍びの者」が仕えていたということに特に興味深く思ったので報告する。 また、高校時代に日本史の授業で聞いた話では、河越太郎重頼の娘が源義経の正妻であって、頼朝・義経の兄弟の不和により、討伐に巻き込まれた川越氏は頼朝の軍に敗れ、川越氏の姫は義経と共に奥州平泉まで逃避行をし、平泉で4歳の娘と共に最期を遂げた。 捕り物に使った十手                    忍者が使用                                                    柄杓に隠し小刀           弥生時代  兜

所沢と渡来人 百済人・王辰爾

2018.12.22 王辰爾・百済人に関する調べ 所沢の佛蔵院は、かつて狭山湖の湖底に沈んだ勝楽寺が移転した寺で有り、勝楽寺村には百済人が住んでいたと入間郡誌などに書かれているので興味を持った。また佛蔵院は王辰爾山という山号であり、王辰爾との関係に興味を抱いて調べてみた。 府中市郷土の森博物館ブックレト6 古代武蔵国府  P8より 新座市史五巻通史編P129 年表付加(和年号の無いもの) 赤字 王辰爾関係「北河内古代人物誌」より抜粋 西暦 和年号 事項   200~310 応神天皇の御代百済・近仇首王(貴須王:第14代百済国の孫 辰孫王の4世の孫)来朝    538~585 王辰爾(王智仁)六世紀後半に敏達天皇の朝廷で活躍 (船氏らの祖) 572 敏達天皇の5月の条に王辰爾高麗国からの国書を読み解く   629 舒明天皇のときに船王後優れた才能を認められた。冠位12階の「第仁」の位 641 王辰爾の孫 船王後没す 645 大化元年 大化の改新 東国に国司が派遣される。 660 百済滅亡 663 日本と唐・新羅連合軍は白村江で激突、日本敗れる。 664 白村江の敗戦により、九州地方防御のため「防人」が設置された。 668 王辰爾の孫王後の墓が柏原市松岡山にあり、その墓の墓誌名に「船王後(ふねのおうご)墓誌」に戌辰年〈668年12月)埋葬の日付け有り 668 高句麗、唐・新羅連合軍により滅ぼされた。(多数の亡命者有り) ...

武蔵野における中世文学「和歌」「謡曲」「狂言」

2018.12.17 武蔵野における文学「和歌」「謡曲」「狂言」 12/12の本稿で「入間郡誌」における「入間言葉」を紹介したが、所沢市史 上巻にも「入間言葉」「入間様」を紹介した文、その他「「和歌」「謡曲」「狂言」を紹介していましたのでおもしろく思い、武蔵野における中世文学として紹介します。 (「所沢市史」上P479~480より) 和歌  和歌及び連歌では「武蔵野」のほか「堀兼の井」「かすみの関」「逃水」などの歌枕がよく詠じられた。しかしそれは都人の思い描く武蔵野像であって、歌われる角度はほとんど決まっていた。武蔵野の場合、取り合わせは「月」「露」「草」「紫」「霞」等に限られてしまう。たとえば、 一もとものこる色なくむさし野や草はみなから霜かれにけり   『東常緣集』 堀兼の井については、藤原俊成作の むさしののほりかねの井もあるものをうれしく水のちかづきにける  『千載和歌集』 以後、ほとんどこの歌の本歌取りである。また「逃水」は一種の蜃気楼で、武蔵野を横切ろうとする旅人や村人が、いかに水に苦しんだかを示すものであったろうが、藤原俊頼の   あづまぢにありといふなるにげ水のにげかくれてもよをすごすかな  『夫木和歌抄』 が有名になると、以後は同工異曲の歌が続く。 謡曲  室町初期に大成した能の詞章である謡曲は、江戸時代までには約3,000番の作品があった。その中で武蔵国を題材とする謡曲は、数少ないものの内容はおもしろい。 「堀兼井」は武蔵国霞の関で、貞慶上人が一夜の宿を乞う。清次という者が井戸をほろうとして失敗し、葬られた塚だと聞いて、上人が弔うと、石を背負って苦しんでいる清次夫婦の幽霊が現れ、供養を頼むという筋である。  「清重」と「追駆鈴木」は、共に入間宿が舞台である。「清重」は、源義経の家来の伊勢義盛と駿河清重が、入間の宿で互いに刀を形見に交換し、逃れようとするが、清重だけが梶原景時に討たれる。  「追駆鈴木」は、同じく源義経の郎従鈴木重家が、入間の宿で、梶原の家来、犬間弾正に捕らわれる。両曲は入間川が鎌倉街道の要衝として、都に知られていたからであろう。 狂言  狂言「入間川」は、大名狂言の中でもよく上演される曲である。当時都で、わざと意味を反対にした言葉を使ったり、順序を逆にしたりする...

「入間言葉」ということ

2018.12.12 入間郡誌をめくっていて「入間言葉」という頁に目が釘付けになった。以前「入間川」という狂言を見たことがあったが、その内容そのままに 説明されていた。 しかし浅学にして入間地方に住んでいるにもかかわらず、全く聞いたことが無い話でしたので印象に残っていたために、 以下にその頁を抜粋した。 入間郡誌p414〈四〉入間言葉 武蔵演路に曰く、「入間言葉と云ふことを、そうせよと云ふをさうすなと云ひ、左を右と云ふなども入間里の風俗とすと。謡曲にも「入間川」あり。入間言葉とは蓋し何事をも反対に言ひあらはすことにて、偶々謡曲にも作らるるに至れる也。之を入間様と云ふ。 此の月になこその関や入間様    宗因 夏の日を涼しと云ふや入間様    宗雅 名も知らぬ月は雲にや入間様    立圃 何れも反対に言ひあらはすことを入間様と用ゐたる也。然らば何故に反対のことを入間様と云ふか。是れ興味ある問題也。 喜田博士は(武蔵野及読史百話)其解釈を廻園雑記に求めたり。雑記に曰く、「是より入間川にまかりてよめる。 立ちよりてかけをうつさは入間川我年波もさかさまにゆけ 此河に付きて様々の説あり。水逆に流れ侍ると云ふ一義も侍り、又里人の家の門、裏にて侍るとなん。水の流るる方角案内なきことなれば、何方を上下と定め難し。家々の口の誠に表には侍らず。 惣じて申し通はす言葉なども反対なる事共なり。異行なる風情にて侍り。」と。即ち地方の風の何となく趣を異にせるに加へて、入間川は武蔵國中の諸川と方向を異にして、入間川町附近にては殆ど正北に流れ、他の川が東し又は南するに似ざるものなり。此に於て入間様なるものは風流人士によりて凡て「反対」の雅語として用ゐられ、之を入間言葉とも称するに至りしならん。決して入間川町、入間郷の地方の古俗、言語を逆に用ゐしにあらず。若し誤て即断し、入間川の言語凡て逆に解すべしとなすものあらば是れ彼の謡曲入間川に出てたる大名の失敗を繰り返すものならずんばあらず。

旧石川組製糸西洋館(入間市)、戦争遺産、将校の住居

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2018.11.17 国登録有形文化財 旧石川組製糸西洋館の見学会に参加した。 西洋館は、石川組製糸の創業者石川幾太郎が建設した迎賓館的機能を持った洋風木造建築である。最盛期には全国に9工場を持ち、大正11年度の横浜への生糸出荷高では全国6位になっている。また石川幾太郎氏は市内の産業・文化の発展に大きく貢献した。 入間市駅北口から徒歩5~6分 国道16号沿いの堂々とした西洋館です。    食堂天井 幾何系天井が美しい。 1F応接室 格天井と落ち着いた雰囲気の家具    応接室の寄木模様の床  2F 応接室のステンドグラス ここでは舞踏会なども開かれた絨毯ふかふかの部屋  2Fホール  2F 西和室 右のドアは米進駐軍に摂取された折に床の間を削られ、ドアを取り付けられた。将校の住居とされ三家族利用のために、元は床の間であったところに出入り口を増設された。  2F縁側(廊下) 2F東和室 板の戸になっているところは進駐軍によってクローゼットに改装されたところ。元は床の間。  2Fへの階段手摺模様 ※立派で美しい建物であった。設計は東京帝国大学で西洋建築を学んだ室岡惣七が手がけ、宮大工の関根平蔵が細やかな天井装飾、床の周囲を廻る寄せ木細工や照明器具まで、部屋ごとに違った装飾が凝らされている。

武蔵野の井戸について(七曲の井、堀兼の井、三ッ井戸)

2018.11.4 10.31に鎌倉街道ぶらぶら旅で、七曲の井、堀兼の井など井戸を巡ったので、井戸についてまた逃げ水について興味をそそられたので、埼玉県「入間郡誌」(千秋社刊)で調べてみた。 武蔵野の井戸について 〇七曲の井戸 入間郡誌 第六節 入間村(注 旧字体で文章が書かれているが、変換するにあたり新字体を利用した所もあります。) (三)入間地方の名勝 この辺武蔵野にて、堀兼井、 迯 水、月見野等の名所少なからず。古来歌に詠まれ、詩に賦せられて、如何に風流閑士の心 膓 を勇躍せしめたりけん。今其の後を尋ねんとするに堀兼の井は宛として彼の迷宮の如く、 迯 水は彷彿として是謎なり。迷宮解けず、謎悟るに能はず。(略) 〔三〕北入曽 常泉寺 中原にあり。高麗村聖天院末、 蔵王山観音院と号す。創立不詳。明治十八年火災に罹り、二十年再築す。 観音堂 不老川の北に沿へり。 七曲井跡  観音堂の後に大なる円形の窪地あり。深さ一丈余。周囲十五六間もあるべし。之れ螺状を為して水際に及べるものなりと云ふ。土人は之を以て堀兼井に擬せり。(略) 〔五〕 迯 水の真相 古来有名なる武蔵野の 迯 水は水野にありとせらる。源俊頼が「東路にあるといふなる 迯 水の、にけかくれても世をすごす哉、」の古歌に詠われてより 迯 水の名所たると大に知られて、然も 迯 水の何物たるやは殆ど補足する所を知らざる也。諸説紛々たり。従て古より武蔵野の古蹟探究家は何れも極力之を明らかにせんと務めたりき。街道旧跡考の記すところ参照すべし。 第一説(蒸気説)旧蹟考に曰く 迯 水は蒸気なり。春の麗らなる日地気蒸れて、遠く之を望めば草の葉末を白く水の流るるが如くに見ゆるもの也。そこへ至れば影なし。三四月迄の事なりとぞ、と。名所考に曰く、 迯 水は水にあらず、曠曠たる原野に此方より見れば草の末の水の流るる如く見ゆるなれば、行程先へ 迯 行く様なるを以てなりと云ふ、と。二書必ずしも全く一ならずと雖、仮りに之を蒸気説と名けん。 第二節(出水説)名所考に曰く、「宮寺郷と云ふ所に不老川あり。畑の方より湧いて川となり、夏の大雨にて出水の節は怪我人等あり。毎年大晦日に至て水流るるとなし」と。旧蹟考は曰く、武蔵の地名考に言ふ。「或人秋霖の頃武蔵野を行くに野路の...

鎌倉街道ぶらぶら散歩 七曲がりの井・堀兼の井・八軒家の井・所沢の相撲部屋

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2018.10.31 鎌倉街道歴史巡り 西武新宿線入曽駅から新所沢駅まで、徒歩で約6時間 20,000歩の行程。 入曽駅→入間野神社→常泉寺観音堂→七曲がりの井→金剛院→化け地蔵→(水野市民の森)→堀兼神社・堀兼の井→(鎌倉街道)→八軒家の井→宝泉寺→二子山部屋→新所沢駅 入間野神社  金剛院と入間野神社と10月14日、15日に獅子舞が行われる由来記。 鎌倉街道の道筋案内 常泉寺観音堂と御本尊 御本尊は観音堂の正面硝子窓から覗くことができる。   常泉寺裏手に七曲がりの井 上部経18~26m 底部5m 深さ11.5mの広大な井戸  隣接する不老川 金剛院 本尊不動明王 10月14日に、ささら獅子舞が奉納される。  化け地蔵  江戸時代の新田開発の功を記念して、過去、現在、未来の幸せを祈念して建立されたお地蔵様。 堀兼神社・堀兼の井戸 ヤマトタケルの東征の折に掘られたという。古来から多くの文人に歌に詠まれている。 武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近つきにけり  藤原俊成 くみてしる人もあらなん自づから堀兼の井を  西行 井はほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしきなり(枕草子168)清少納言      八軒家の井戸 私有地の中にあり、奥まっていて探すのに難。ただ窪地のようになっていたが、これもほりかねの井の1つ。 宝泉寺 境内の庭がよく手入れをされていた。美しいお寺 十月桜 野牡丹 シュウメイギクなどが咲いていた。 相撲 二子山部屋 九州場所が近いということで、お相撲さんの姿は見られなかった。  二子山部屋隣接地の西富地区の畑 *宝泉寺の近くの工務店の脇に設置されている飲み物の自販機の値段の安いことに驚いた。(半値か 50円、100円でした)