所沢市出身の三上(高川)文筌 3 


所沢市出身の三上(高川)文筌 (その3)

  松代藩医師高川家に養子 高川文筌、森嶺 と名乗る。
松代藩の8代藩主真田幸貫は定信の次男で、老中・海防担当に就任、佐久間象山ら若手を登用、名君の一人にあげられた人物で書画を愛した。幸貫と文晁の用件を繋いだのが江戸住まいの松代藩側医師の高川楽真で足繁く文晁の元に通った。この時文筌の人となりを知って養子に迎えたと考えられる。また、文晁、嫡子文二が18411850年に相次いで亡くなったことも養子となるに背を押したのだろう。娘婿として養子に入ったのが1850年嘉永3年である。「森嶺」として医師となった。絵の要請も高川森嶺宛になっている。前述の御納戸日記には嘉永510月幸貫の病気治療の褒美として高川森嶺に金200疋を与えたと記録されている。           

  黒船来航-開国の大事件に立ち合う
1854安政元年ペリー再来航では松代藩と小倉藩が横浜応接場護衛を命ぜられ、松代藩から佐久間象山が軍事役、文筌が医師として派遣された。文筌は全権大使浦賀奉行伊沢政義の付き添い医師として重要な場に臨席できた。
身近に米国使節団に接し、一連の黒船来航絵巻(亜米利加使節饗応之図、米国使節ぺりー渡来絵図写生帖、ぺりー渡来絵図貼交屏風、横浜応接場秘図、浦賀紀行図等)を描き、高川文筌として広くその名を知られた。
象山は応接場の護衛軍事役で藩士宛ての手紙に「文筌が一行の肖像を描くとアメリカ人たちがそれを見て『ぶんせんぶんせん』と繰り返し名前を呼んだ」と書いている。


              
  黒船来航絵巻より

  その後の文筌
文筌の没年は1858安政8年となっているが、前年1857年松代藩は横浜応接場警護後に品川岱台場の海防を命じられ文筌も勤番になっている。 
生年が1818年であるから若干40歳の生涯を閉じたわけであるが、死因については詳らかではない。                 
   登坂宏氏資料より引用)

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