武蔵野の井戸について(七曲の井、堀兼の井、三ッ井戸)

2018.11.4

10.31に鎌倉街道ぶらぶら旅で、七曲の井、堀兼の井など井戸を巡ったので、井戸についてまた逃げ水について興味をそそられたので、埼玉県「入間郡誌」(千秋社刊)で調べてみた。


武蔵野の井戸について

〇七曲の井戸

入間郡誌 第六節 入間村(注 旧字体で文章が書かれているが、変換するにあたり新字体を利用した所もあります。)
(三)入間地方の名勝
この辺武蔵野にて、堀兼井、水、月見野等の名所少なからず。古来歌に詠まれ、詩に賦せられて、如何に風流閑士の心を勇躍せしめたりけん。今其の後を尋ねんとするに堀兼の井は宛として彼の迷宮の如く、水は彷彿として是謎なり。迷宮解けず、謎悟るに能はず。(略)

〔三〕北入曽
常泉寺 中原にあり。高麗村聖天院末、 蔵王山観音院と号す。創立不詳。明治十八年火災に罹り、二十年再築す。
観音堂 不老川の北に沿へり。

七曲井跡 観音堂の後に大なる円形の窪地あり。深さ一丈余。周囲十五六間もあるべし。之れ螺状を為して水際に及べるものなりと云ふ。土人は之を以て堀兼井に擬せり。(略)

〔五〕水の真相
古来有名なる武蔵野の水は水野にありとせらる。源俊頼が「東路にあるといふなる水の、にけかくれても世をすごす哉、」の古歌に詠われてより水の名所たると大に知られて、然も水の何物たるやは殆ど補足する所を知らざる也。諸説紛々たり。従て古より武蔵野の古蹟探究家は何れも極力之を明らかにせんと務めたりき。街道旧跡考の記すところ参照すべし。
第一説(蒸気説)旧蹟考に曰く水は蒸気なり。春の麗らなる日地気蒸れて、遠く之を望めば草の葉末を白く水の流るるが如くに見ゆるもの也。そこへ至れば影なし。三四月迄の事なりとぞ、と。名所考に曰く、水は水にあらず、曠曠たる原野に此方より見れば草の末の水の流るる如く見ゆるなれば、行程先へ行く様なるを以てなりと云ふ、と。二書必ずしも全く一ならずと雖、仮りに之を蒸気説と名けん。
第二節(出水説)名所考に曰く、「宮寺郷と云ふ所に不老川あり。畑の方より湧いて川となり、夏の大雨にて出水の節は怪我人等あり。毎年大晦日に至て水流るるとなし」と。旧蹟考は曰く、武蔵の地名考に言ふ。「或人秋霖の頃武蔵野を行くに野路の外なる所は水湛えて通ひ難し。野中を行けば何處とも無く水流れて、草根沼の如し。此頃往復の人定かならず。道を此處彼處とさまよひ、水無き方に渡す。武蔵野の人皆知れる所にして、八九月頃霖雨に遇ひては必ずあるとなり。これなん水のかくれても云々と符合することにや。又一説に不老川は年末に水絶ゆる故水なりと云へど、之は水にあらず。渇水なり。」と。要するに以上を出水説と名付けん。以上二点は必ずしも地点を定めざるもの也。
第三節(末無川説)
名所考に曰く、水野村と云うふ所に()(すみ)水野忠助と云ふもの居屋敷に小川あり。藪の中に流れいり地中に染み込みて流の末無し。余偶々忠助の家に至り見るに小川あり。源はこれも宮寺郷の邊より起り、流るると二里許なり。今は藪は無くて、川の末堀切てあらはに見ゆ。その五間ばかり上、鍵の手に折れたる邊まではちち潺湲たる流れなれど、堀切の處に至れば、水止で其行衛を知らず。其源を問へば、僅に三尺餘ばかりなりと云ふ。水野村元新田地にして人家もなかりしを忠助が先祖はじめて開きしとなん、と。
三節何れも得失あり。(略)

第七節 堀兼村

〔二〕堀兼井

(一)古歌にうたわれたる名所 堀兼井は古来頗る人目を惹き、武蔵野を語るものは水と共に直に堀兼井を連想す。古歌頗る多し。

千載集  俊成卿
武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近きにけり
俊頼集  俊頼
浅からす思へはこそはほのめかせ堀兼の井のつつましき見を
山家集  西行
くみてしる人もあらなん自つから堀兼の井のそこのこころを
拾玉集  慈円
いまはわれ浅き心をわすれみすいつ堀兼の井筒なるらん
名寄   後の久我卿
堀兼ぬる水とのみきく武蔵野の身はさみたれの波の下くさ
同    冷泉卿
武蔵野や堀兼の井の深くのみ茂りそまさる四方の夏草
伊勢歌集  
いかてかく思ふ心は堀兼の井よりもなほそ深さまされる
六帖   読み人知らず
武蔵野の堀兼の井の底浅み思ふ心を何に例へん
廻国雑記  道興准后
おもかけのかたるに残る武蔵野や堀兼の井に水はなけれと
等様々あり。

(二)堀兼井と称する古跡 堀兼の井の世に知られたること斯くの如し。然れども未だ何れの處に果して真の井の跡ありしを知らざる也。
斯くて武蔵野の名勝として、堀兼井の名、著しきに従て、堀兼井の跡なりと称する處各所にあらはれ、或は荒唐なる伝説を賦會し、或は尤もらしき理論を構成して古跡争いを行へり。此故に堀兼の井の由来及其古跡に関しては、古来よりの諸書殆ど帰着するところを知らず、或は東京府多摩郡に於て之を求めんとするあり。或は東京市中牛込、赤坂等の邊に之を定めんとするあり。更に之を入間郡内にありとする多数説に於ても堀兼村、入間村所沢近郊等の諸説混出せり。
此故に文政七年刊行の武蔵名所考には諸説を考定列挙せる上、自ら其地方に就きて井跡と伝へらるるもの十四ヶ所を調査し一々之を挙出せりその要に曰く
  余其地に就きて之を探りしに入間郡堀金村(今の堀兼村大字堀兼)北入曽村、北入曽新田(入間村北入曽)南入曽村等に於て土人七曲の井と称する古井の跡と覚しき窪かなる所十四ヶ所あり、皆堀兼の旧跡なりと云伝ふ(中略)其十四ヶ所は堀金村に七ヶ所、北入曽村に三ヶ所、北入曽新田に二ヶ所南入曽に二ヶ所あり
とて各の位置、実状を説述せり。而して堀兼村内なる「カンカン井戸」藤倉下奥富青柳村等の古井跡なども参考として説明せり。
堀兼の井跡と称するもの古来斯の如く多くして而も其帰一する所を知らざること亦斯の如し。然らば其何れを以て真の古跡に当つべきか将に又別に堀兼井なるものに就て別個の諸説を試みざるべからざるか是れ吾人の講究せざるべからざる所なり。

(三)堀兼神社及堀兼井 然るに普通には堀兼村大字堀兼、堀兼神社境内に存する窪地を以て井跡と認定せるが如く、景行天皇四十年日本武尊東夷征伐の帰途上総国より知知夫国に凱旋の際大旱に遇ひ給ひしかば尊命じて井を掘らせ給ひ、辛ふじて水を得たりとの伝説さへ残り、慶安三年五月松平伊豆守其臣長谷川源左衛門尉に命じ浅間神社(即今の堀兼神社)再営の時井跡の碑を立てしめ、次で秋元但馬守亦其臣岩田彦助をして碑を立てしめ、正三位清原宣明の詩を刻せる碑も亦建てらるるに至れり。斯の如くにして一般には堀兼神社の境内即是れ堀兼井蹟なりとの説行はる。(略)



第六章 南部諸町村(所沢町附近、柳瀬川地方)
〔二〕上新井
上新井は村の東半を占めたり。(略)或は曰く昔弘法大師此処に井を穿ち、清冷の水をえたり、依て村名を新井と名くと。今も三ツ井戸と称するものあり。然れども俗説採るに足らず。野話が新井を以て所沢村の新居なりとなせるは稍々傾聴するに足る。上新井の北部に石鏃を出す。

〇三井戸 東方にあり。所沢町に近し。谷戸川に沿ふて今は二井あり。井底河床よりも高し。然も川は水屢ゝ絶ゆれど、井は終古深碧なりと云ふ。里人之を奇とす。

コメント

このブログの人気の投稿

4月の植物図鑑

菊苗の植え替えとクジャクサボテンの開花

所沢市出身の三上(高川)文筌2