武蔵野における中世文学「和歌」「謡曲」「狂言」

2018.12.17

武蔵野における文学「和歌」「謡曲」「狂言」

12/12の本稿で「入間郡誌」における「入間言葉」を紹介したが、所沢市史 上巻にも「入間言葉」「入間様」を紹介した文、その他「「和歌」「謡曲」「狂言」を紹介していましたのでおもしろく思い、武蔵野における中世文学として紹介します。
(「所沢市史」上P479~480より)


和歌 和歌及び連歌では「武蔵野」のほか「堀兼の井」「かすみの関」「逃水」などの歌枕がよく詠じられた。しかしそれは都人の思い描く武蔵野像であって、歌われる角度はほとんど決まっていた。武蔵野の場合、取り合わせは「月」「露」「草」「紫」「霞」等に限られてしまう。たとえば、
一もとものこる色なくむさし野や草はみなから霜かれにけり   『東常緣集』
堀兼の井については、藤原俊成作の
むさしののほりかねの井もあるものをうれしく水のちかづきにける  『千載和歌集』
以後、ほとんどこの歌の本歌取りである。また「逃水」は一種の蜃気楼で、武蔵野を横切ろうとする旅人や村人が、いかに水に苦しんだかを示すものであったろうが、藤原俊頼の
  あづまぢにありといふなるにげ水のにげかくれてもよをすごすかな  『夫木和歌抄』
が有名になると、以後は同工異曲の歌が続く。

謡曲 室町初期に大成した能の詞章である謡曲は、江戸時代までには約3,000番の作品があった。その中で武蔵国を題材とする謡曲は、数少ないものの内容はおもしろい。
「堀兼井」は武蔵国霞の関で、貞慶上人が一夜の宿を乞う。清次という者が井戸をほろうとして失敗し、葬られた塚だと聞いて、上人が弔うと、石を背負って苦しんでいる清次夫婦の幽霊が現れ、供養を頼むという筋である。
 「清重」と「追駆鈴木」は、共に入間宿が舞台である。「清重」は、源義経の家来の伊勢義盛と駿河清重が、入間の宿で互いに刀を形見に交換し、逃れようとするが、清重だけが梶原景時に討たれる。
 「追駆鈴木」は、同じく源義経の郎従鈴木重家が、入間の宿で、梶原の家来、犬間弾正に捕らわれる。両曲は入間川が鎌倉街道の要衝として、都に知られていたからであろう。

狂言 狂言「入間川」は、大名狂言の中でもよく上演される曲である。当時都で、わざと意味を反対にした言葉を使ったり、順序を逆にしたりすることを「入間言葉」「入間様」といったらしく、それを素材とする。訴訟が終わり帰国する大名が、入間の何某に川の浅瀬を尋ね、入間言葉だろうからと、違う場所を渡りぐしょぬれになる。大名は入間の何某を成敗するというが、某は入間言葉なら成敗しない意味だと答える。大名はおもしろがって某に扇・太刀・小袖・裃を与えた上「真実嬉しいか」とたずね、「本当に嬉しい」と答えると、入間言葉だといって品々を取り返そうとし「やるまいぞやるまいぞ」と終わる。入間言葉については『廻國雑記』もふれている。しかしこの習俗が、この地方に事実あったのか、単に都での流行であったのかはわからない。
 また狂言「神鳴」は、鎌倉の医師が生活に窮し、奥州へ下ろうとして、武蔵野で、空から落っこちた雷に遭い、薬を飲ませ針を打って治療する。その礼に「私の在所は毎年干魃致して不作仕れども、地頭殿から御年貢は皆済させられて迷惑致します、(もし)成事(なること)でござれば何卒干魃致しませぬ様に守らせられてくだされ」という願いを聞き届けられるのである。

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