所沢と渡来人 百済人・王辰爾
2018.12.22 王辰爾・百済人に関する調べ |
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所沢の佛蔵院は、かつて狭山湖の湖底に沈んだ勝楽寺が移転した寺で有り、勝楽寺村には百済人が住んでいたと入間郡誌などに書かれているので興味を持った。また佛蔵院は王辰爾山という山号であり、王辰爾との関係に興味を抱いて調べてみた。 | ||||||||
府中市郷土の森博物館ブックレト6 古代武蔵国府 P8より | ||||||||
新座市史五巻通史編P129 年表付加(和年号の無いもの) | ||||||||
赤字 王辰爾関係「北河内古代人物誌」より抜粋 | ||||||||
西暦 | 和年号 | 事項 | ||||||
200~310 | 応神天皇の御代百済・近仇首王(貴須王:第14代百済国の孫 辰孫王の4世の孫)来朝 | |||||||
538~585 | 王辰爾(王智仁)六世紀後半に敏達天皇の朝廷で活躍 (船氏らの祖) | |||||||
572 | 敏達天皇の5月の条に王辰爾高麗国からの国書を読み解く | |||||||
629 | 舒明天皇のときに船王後優れた才能を認められた。冠位12階の「第仁」の位 | |||||||
641 | 王辰爾の孫 船王後没す | |||||||
645 | 大化元年 | 大化の改新 東国に国司が派遣される。 | ||||||
660 | 百済滅亡 | |||||||
663 | 日本と唐・新羅連合軍は白村江で激突、日本敗れる。 | |||||||
664 | 白村江の敗戦により、九州地方防御のため「防人」が設置された。 | |||||||
668 | 王辰爾の孫王後の墓が柏原市松岡山にあり、その墓の墓誌名に「船王後(ふねのおうご)墓誌」に戌辰年〈668年12月)埋葬の日付け有り | |||||||
668 | 高句麗、唐・新羅連合軍により滅ぼされた。(多数の亡命者有り) | |||||||
672 | 天武1 | 壬申の乱 | ||||||
676 | 天武5 | 国司任用の制度が定められる。 | ||||||
684 | 天武13 | 渡来した百済の僧尼・俗人男女23人が武蔵国に移される。(武蔵国の初見) | ||||||
685 | 天武14 | 国境策定のため伊勢王らが東国へ派遣される。〈東山道が成立した?〉 | ||||||
694 | 持統8 | 藤原京遷都 | ||||||
701 | 大宝1 | 大宝律令制定 | ||||||
703 | 大宝3 | 従五位下引田朝臣祖父が武蔵野守に任命される。(武蔵野国司の初見) | ||||||
708 | 和銅1 | 武蔵国が自然銅を貢進し、年号が「和銅」と改められる。 | ||||||
710 | 和銅3 | 平城京〈奈良)に遷都 | ||||||
712 | 唐、エイソウを渤海郡王に封じた。(唐を中心とする東アジア情勢に敏感にならざるを得ない時期。不測の事態に備えようとした。) 勝楽寺村に(王辰爾山?)勝楽寺建立(入間郡誌) |
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713 | 和銅6 | 諸国の郡郷名の改正と「風土記」の作成が命じられた。 | ||||||
716 | 8月遣唐使を使わす。唐と渤海関係の確認のため? | |||||||
716 | 霊亀2 | 相模・上総・下総・常陸・下野など7カ国の高句麗人1799人が武蔵国に移され、高麗郡が設置される。 (高麗郡に勝楽寺建立、後の聖天院)(入間郡誌) |
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719 | 養老3 | 全国に按察使設置、武蔵国守多治比県守が按察使を兼ね、相模・上野・下野を管下に加える。 | ||||||
724 | 百済王敬福黄金九百両献上 聖武天皇から交野郡中宮の地は王辰爾の旧館と云う | |||||||
741 | 天平13 | 国分寺造立の詔が発せられる。 | ||||||
747 | 天平19 | 国分寺造営について国司の怠惰が責められ、郡司に協力が要請され、3年以内の完了が命じられる。 | ||||||
758 | 天平宝字2 | 新羅の帰化人僧俗男女74人が武蔵国の閑地に移され、新羅郡(後の新座市)が設置される。 | ||||||
759 | 天平宝字3 | 武蔵国の陰田900町歩を巡察使が堪検 | ||||||
761 | 天平宝字5 | 新羅征討のため、美濃・武蔵国の少年各20人に新羅語を習わす。 | ||||||
764 | 天平宝字8 | 武蔵国出身の物部(入間)広成や丈部不破麻呂が恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の鎮圧に活躍する。 | ||||||
771 | 武蔵国東山道から東海道へ所属替えとなる。 | |||||||
※ | 駅制の官道としての東山道は(なかつみち)とも呼ばれ各駅に馬10匹を置く中路とされた。 | |||||||
船王後墓誌 | 我が国最古の墓誌668年 | |||||||
「船氏王後首は王智仁首の孫、那沛故首の子です。乎娑陁宮天下天皇(敏達天皇)の時に生まれ、等由羅宮治天下天皇(推古天皇)に仕え、阿須迦宮治天下天皇(舒明天皇)の時には優れた才能を認められ、冠位十二階の第三等にあたる「大仁」の位を賜りました。そして辛丑年(641)12月3日に没しました。その後戌辰年(668)12月に松岳山上に埋葬しました。夫人の安理故能力刀自と共に同じ墓に埋葬し、墓は兄の「刀羅古首の墓と並んで作りました。この地は永遠に神聖なる霊域であり、侵してはなりません。 | ||||||||
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