蒔田さくら子作品を読む(1)


2020.7.20

蒔田さくら子作品を読む(1)
コロナ禍の退屈な自粛の折、作品の感想を書き綴った。

蒔田さくら子さんは「一九二九年生まれ(昭和四年一月十一日)「をだまき」を経て昭和二十七年小宮良太郎の「短歌人」に入会。昭和六十年から発行責任者。長い歌歴をお持ちの方である。
 私は蒔田さんの数ある作品を読み通すこともままならず、二〇一九年に「短歌人」に発表された作品の中からこれと思う作品を選んで考察させていただくことにした。

 題詠「虎」
 二〇一九年四月号から
 争はず殺さず淫せず不条理を(をら)ばず檻の虎視淡淡たり

この歌は一気に読み下して力強く歯切れがよい。声調に張りがあり異色な感じで目を引いた。下の句で「檻の虎視」で読みに迷いが生じたが、丁寧に読むと「叫ばず檻の」が七音、「虎視淡淡たり」で八音、下の七七にあたる。字余りである。「檻の(虎)」でなければ「檻」の中に虎が見えなくなってしまう。「檻の」の「の」は主格を表すので、次に言うべき主語の「虎」が省略されているのだと思い当たり、「檻」の中に微かな虎が見えてきた。次の「虎視淡淡」から虎の姿が二重写しになって見える構成だとわかる。虎がやや弱い。
次に「虎視淡淡」の表記であるが、熟語では「虎視眈々」、ここに作者の意図が明らかに感じられるところである。「虎視眈々」は広辞苑によると、「虎が獲物を狙って目を見張りじっと見下ろすさま」まさに大草原にが狩りをするときのイメージを彷彿とさせる。「淡淡」は「あっさりしたさま。執着のないさま」虎にはふさわしくない形容であるが、「檻」の中の虎、おそらく動物園の檻の虎は餌をもらい狩りを必要としなくなった淡淡と生きる動物、「耽々」よりも「淡淡」としたほうがふさわしい姿と捉えたのだろう。「耽々」と「淡々」のギャップ、そこに作者の狙いがあり、野生動物に対する人間の強引さが示され、不条理な心の痛みが感じられる。
 上の句に戻るが「争はず殺さず淫せず」はまさに檻の中の動物、自然に生きるものならば、縄張り争い、生きるための狩り、雄ならば雌を引き連れハーレムを作る。これらから隔絶された虎は生来の本能から遠ざけられていて「不条理と叫ば」ねばならない不自然な状態であるが、「叫ば」ない。「叫ぶ」ことを許されていないのだ。淡淡と生きねばならぬもどかしい姿、飼いならされた虎の哀しみ、哀れさ。そこに社会に生きる人間の姿がオーバーラップしてくる。
「耽々と」生きるべきものが「淡淡と」生かされる。そこにある哀しみは現代人の抱える哀しみでもあると、問題提起がされる。人も「不条理」な生き方をせざるを得ない世の中を嘆き喚起する理性に、胸を正される。丈高く真実を見つめる問題意識は題詠の持ち味であろう。


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