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壱岐・対馬の旅2 (壱岐)

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 壱岐・対馬の旅2 宿泊は割烹旅館。料理は煮物も魚もおいしい。部屋も広く快適である。大浴場は沸かし湯ということであるが、温泉のようにすべすべとして心地よい。小さな島というイメージで壱岐に来たが、バス移動で島の広さを実感している。代わりにわれわれが住む日本列島が島国である事を強く実感した。 松永安左エ門記念館 電力王松永安左エ門は戦争を嫌い所沢市柳瀬地区に一時住んでいたことがあり、その建物は重要文化財「黄林閣」という茶室兼住宅を残している(東京国立博物館所蔵)ので、ぜひ見学したい施設であったが、行程にはなく見学できず誠に残念である。 せめてもと朝の散歩に、松永安左エ門の生家跡の記念館に寄ってみた。この島の出身で宿泊したところが記念館まで歩いて5分、施設の見学はできなかったが、出生地を訪ねることができ誠にラッキーと言うべきであった。 宿泊地(印通寺地区)→芦辺港→八幡半島→原の辻一支国王都復元公園→郷ノ浦港 松永安左エ門記念館 展示電車は長崎の市電 市電敷設にも尽力。バス見学の途中に火力発電所があったが、大正時代に壱岐の島民のために安左エ門が開設したものという。壱岐の島民は大正時代には電気が各家庭に配線されていた。 記念館入口 安左エ門ご夫婦だろうか? 生家跡に建つ松永安左エ門記念館 唐人神 神社? 歩道も整備されていて、街並みはきれい。 印通寺港 はらほげ地蔵 海の波に削られ腹も「ほげる」よ。 八幡半島 左京鼻 左京鼻 柱状節理 左京鼻先端部の神社 強風にすくむようにアザミの花が咲いていた。 壱岐国・一支国ガイダンス 郷土の誇り 松永安左エ門 原の辻(一支国王都の研究者) 一支国王都の範囲(発掘が進められている) 壱岐の鬼凧 タコに噛まれた若宮大臣 説明、不明瞭のためできず。 原の辻一支国王都の復元公園 王の住居 原の辻一帯は水田地帯

壱岐・対馬の旅

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 壱岐・対馬の旅 昨年九州の大宰府や宗像大社を見学していたので、その先の玄界灘を渡った先も見たいと思っていた。たまたま「壱岐・対馬の初めての旅」のチラシをみて、決行することにした。 地図やガイドブックの類も詳しいものが手に入らず、ネット検索に頼るしかない状態であったので、知識もおぼろのまま、現地に行ってみての楽しみとなった。「魏志倭人伝」の頃からの歴史を刻んだ島、大陸との交流、時には元寇との戦に苦しめられた島、等々古代からの文化が根付く島である。 行政区分は長崎県であり、壱岐島の大きさは南北17km/東西15km。稀少な自然を残し長崎県内でも2番目に広い稲作地帯ということを初めて知った。美しい棚田が広がり、水にも恵まれた豊かな島で黒毛和牛「壱岐牛」も有名。「麦焼酎」発祥の地でとてもおいしい。 また、電力王と言われた「松永安左エ門」の出身地であることも、進出気鋭の島である思いを深くした。 羽田→福岡空港→博多港→高速船(1時間10分)→壱岐・郷ノ浦港 レインボーカラーに彩られた機内 福岡空港到着直前 博多港 福岡タワー 高速船 ヴィーナス2 博多→郷ノ浦港 高速船に乗って1時間10分、壱岐の島が見えてきた! 揺れもほとんどなく快適な船旅。 郷ノ浦港  バスに乗って見学地へ、車窓には美しい棚田が見える。長崎県内では2番目のコメの産地だそうだ。 最初の見学地 猿岩 本当に猿にそっくりな自然石、まつ毛まである。 黒崎砲台跡 終戦時に上部は米軍に破壊されて構造物のみ残っている。 左のやや小形の物がここの弾。飛距離は約35km。壱岐と対馬の距離60kmの半分をカバーした。対馬からも同様の砲台があった。右は戦艦大和の大砲の弾。 バス移動で宿泊地の印通寺地区へ きれいな漁港、街並みも整っている。

新河岸川散策3(福岡河岸ー仙波河岸)

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 新河岸川散策3(福岡河岸ー仙波河岸) 福岡河岸には船問屋が3軒(福田屋・江戸屋・吉野屋)があり、安永2年(1773)には幕府から公認されました。対岸の古市場河岸とともに、福岡河岸は明治時代に最盛期を迎え、新河岸川舟運は、昭和初期まで約300年間続きました。その福田屋本家は2で紹介した福岡河岸記念館となっています。江戸屋は打ち捨てられたようになっていますが、蔵も家も残っていますので、将来は見学できることを期待したい。 さて、吉野屋さんであるが往時は蔵が12棟も並ぶ賑わいだったというが、現在は文庫蔵1棟が船着き場近くに残っているのみ。 説明とは逆順の写真(写真が多いせいか) 仙波河岸(川越) 新河岸川の最上流部 新河岸川河岸跡 左 新河岸川ー右 不老川 不老川が新河岸川に合流地点 扇河岸跡 船問屋 旧伊勢安 (上・下新河岸河岸近く) 大河内家・長押に帆柱(約10m)や櫂が取り付けられている。 旧河内屋 下新河岸日枝神社・観音堂 下新河岸日枝神社 下新河岸(五大尊写し霊場碑の一部) 越生郷黒岩村生まれの鈴木金兵衛は、崇敬する(現越生町)五大尊境内に四国88か所、四国・西国・坂東・秩父百観音の写し霊場を企て、弘化3年(1846)に、札写し(巡拝碑)の建立に着手しました。碑は、江戸神田で加工され、川越まで新河岸川を回漕、河岸場から五大尊へ陸送されました。しかし、事業は完成に至らず104基が五大尊境内に散在している状態でした。 写真の碑はその一部と思われるものが、川越に残されていることが分かりました。 下新河岸 厳島神社の弁天様 大河内家 (下新河岸の船問屋だった) 船頭さんが船べりからすべって落ちないように敷いた薄縁のようなもの。 舟の帆柱(……庭のサボテンをいただいた…ありがとうございました) 上新河岸河岸 旭橋 寺尾河岸跡 水門と洪水になったときに水を川に戻す施設 養老橋たもとの橋本呉服店 所沢に呉服店がない時代には所沢に呉服を売りに来ていたという、老舗呉服店  養老橋たもと向かいから見た福田屋(福岡河岸記念館) 吉野屋土蔵(文庫蔵)