桶川歴史民俗資料館をたずねて

 

紅花の里

桶川歴史民俗資料館

チョッとした用事があって桶川に来た。住居地の所沢からはそんなに離れてはいないのだが、秩父山地から離れたせいか、グッと関東平野のど真ん中に来た感じだ。荒川の土手を過ぎて田園地帯の真ん中に圏央道が走り、道の駅ができた感じの「紅花の里」道の駅である。

埼玉でありながらこれまで来たこともなく、別天地の気配さえする、「紅花の里」という優雅な名前に惹かれ道の駅に寄ってみる。ネットで調べると、江戸時代後期には「紅花」の生産量は山形に次いで、全国2位ということであった。

更に調べてみると、ある本に川越藩が庄内藩と藩替えになったとき、庄内藩にきれいな紅花が咲いていて商品作物であることを知り、当時川越藩であった貧しい桶川の農民に紅花の種を渡して栽培を促したと伝えられているという。

万葉集や源氏物語の「古代」のロマンにあふれた紅花への思いを馳せて、道の駅へ寄り、隣接している「桶川歴史民俗資料館」に寄ってみたのだが……
  紅花については一切触れていなっかったのが物寂しい限り。それでもゆっくり見学し、土壌の違いなど風土の違いを感じることができた。


桶川歴史民俗資料館へいざ!!


紅花を頭に戴いた市のマスコット人形

桶川宿の街並み 

桶川宿の街並み 文久元年ごろ(1861) 中山道が街の中心に通っている(皇女和宮も通った道)


縄文時代からの歴史のある町 遮光土器など 国の重要文化財に指定されている 市内にはたくさんの遺跡あり


土壌の違いに興味を覚えた
「ドロツケと麦作」
馬の背に付けた「スリカ」という道具に「ヤドロ」(荒川の河川敷の肥沃な土)を積み、少しずつ畑へ運びしき込んだ、この作業を「ドロツケ」と呼ぶ。主に麦作用。

「摘み田」
大宮台地の沼田は「ドブッタ」と呼ばれる深田が多い所。ドブッタでは深い泥に足が取られてしまうため、足場を確保するために田の底に丸太を渡していた。それでも足がとられてマンノウなどの農具の柄を支えに、足を引き抜くなど農作業は大変苦しい物だった。
この地方では稲作は直播栽培で行われた。春先に堆肥や灰にまぶした種もみを摘まんでは蒔きつける「摘み田」と呼ばれる方法で行われた。稲刈りでも刈った稲を選ぶ「田舟」という舟に乗せて運んだ。昭和30年代まで行われた。


サツマイモの栽培 サツマイモの伏せ床(苗作り)
甘藷は主に桶川駅から東北地方に出荷された。

鉄道の開通はそれまでの生活を一変させた。
高崎線に桶川駅ができる(明治18年 1885)


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