岡井隆「ネフスキイ」を読んで-ー現在のロシアとウクライナ情勢がダブって見える
「政治とはなんだ」
岡井隆「ネフスキイ」を読んで
一 始めに 岡井隆の世界は多彩・多作である。『ネフスキイ』には本書のあとがきに「八百四十首が収められていて、二〇〇六年九月十二日~二〇〇七年八月十五日までの三百三十八日間に作られた歌で、イベントや旅や読書の記録が残っている」という。また、本書の「題」となったネフスキイとは、ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ネフスキイ(愛称コーリア)の民俗学の論文『月と不死』をよみてさまざまに心遊べる歌二十三首」は二〇〇七年十月六日朝日カルチャーセンター立川で行なはれた朗読会のために作った。もとの題詠「月」に応じたもの」との詞書がついて、巻末に収められている。
ネフスキイは、日本に留学して民俗学者として稀な才能を発揮した人であり、帰国後、第二次世界大戦前の異常な情勢の中でロシアの官憲に逮捕され、命を落とした数奇な人である。現在のロシア情勢とも重なり、戦争のむごさを目の当たりにし、民衆の受難を想像するに悲哀の念を禁じ得ない。惜しむべき人を失ったと深く悲しみ、岡井のメッセージを真摯に受け止めたいと思う。
二 表現形式 この巻末の二十三首(別紙参照 〇数字は二十三首を①~㉓の順に番号を振った)を読むとネフスキイの生涯と岡井の生活が幾つかのまとまりとして交互に配され、円環をなすように構成されている。①②の歌では題詠のための「月」が民俗学的に不死に表象されること。③~⑦は岡井の愛読書「ネフスキイ伝」によるネフスキイの前半生の紹介。⑧~⑪岡井の朗読会当日、前後の生活。⑫~⑯はネフスキイの悲劇の生涯の後半生の紹介。⑰~⑳は岡井の仕事を含めた私生活。㉑~㉓帰らないネフスキイに思いをはせる詠嘆(結論)である。朗読会のための構成で、大変わかりやすい。過去を掘り起こし現在、未来へと世相をつなぎ、糾弾する。表現の特徴では句点、読点の使用、散文的、口語文に多義性を含み、「月」を素材にメリハリの利いたわかりやすい表現方法である。
三 N・ネフスキイの略歴
一八九二年二月十八日古都ヤロスラウリ市生まれ。幼いころに父母を亡くし、ルィビンスク市の教会の聖職者であった母方の祖父母に引き取られ、八歳でルィヴンスク中学校(ギムナジウム)に入学、まもなく祖父母と死別。叔母の世話になったが、孤児の優等生として奨学金を受け、一九一〇年ペテルブルク大学の東洋語学部に入学。一九一五年七月ぺテルブルグ大学の官費留学生として二年間の予定で日本に留学する。一九一七年ロシア革命により帰国の機会を逸した。日本に滞在し、研究を続ける。一九二九年八月帰国。レーニングラード大学日本語学科で教鞭をとる。一九三七年一〇月ネフスキイと妻が突然逮捕された。(妻イソの日本国のスパイ容疑でシベリヤに送られ、銃殺されたという)一九六〇年ネフスキイの『西夏語辞典』稿本が刊行され、一九六二年レーニン賞が与えられ、名誉が回復された。ソ連の『レーニングラード史』には「彼は一九三八年個人崇拝によってもたらされた専断(プロイズヴォール)の犠牲となったのである」と書かれている。
四 二十三首の略解・感想。
①②は月の題詠に対する骨格をなすもの。ネフスキイは『月と不死』の中で各地から採取した民話から「月」と「人の寿命」との関係を、月は満ち欠けにより再生を繰り返す不死身を象徴している。満月は最も命の輝く美しい時。その美しさにあこがれて長寿を願うのが人間というもの。長寿社会となった現代では手放しでは喜べないが、人類の永遠のテーマである。②は「月は…太陽は…」何かの深淵な格言のようだ。ネフスキイの採取した言葉かもしれないと探したがわからず、ネットで検索してみると「プラトンの洞窟の比喩というのが、目を引いた。「人間は洞窟の中にいて、後ろを振り向くことができない。入口からは太陽(明かり)が差し込んでおり、イデアを照らし、洞窟の壁に影を作り出す。後ろに真の実体(イデア)があることを知らない人間は、その影をこそ実体だと思い込む。(人間の世界以外にイデアがある。ここでの壁にあるものはイデアの形相が映し出す照射である)この世の真実は眼に見えない。これは岡井の知識の源にあった考えかもしれないが、人間のイデアも寿命も捉えがたい深遠なものである。
③~⑦は「ネフスキイ伝」について ③ネフスキイ伝を読みさしのまま、ものを書き出した。普通は読み終えてから取り掛かるものであるが、おそらく魅せられあふれだした気持ちのなせる業がそうさせたのであろう。「ネフスキイ伝」に岡井の感情が揺さぶられ「読みさしのままがいいこと」と新鮮な感情を自己肯定する。④心惹かれる本を読み始めて、途中のまま旅に出る。帰って本を読むのが待ち遠しい。「待ちがてぬ」は「待つ」+「難(が)てぬ」で「待ちがたい」月の出が待ちどおしいように、本の続きを早く読みたいという強い気持ちを表現。⑤これも「ネフスキイ伝」。まだ読んでいない部分から、読み終えた頁に月光がさして、既読の内容や感動が心をそそる。ネフスキイ伝に岡井がいかに魅せられ愛読していたかがわかる③~⑤の作品である。
次はネフスキイ(愛称コーリア)の少年時代。⑥幼い時に父母を亡くした少年が祖父母に引き取られたヴォルガ河右岸の港町ルィビンスク。そこの教会の質素な小部屋で生活をしていたコーリア。⑦孤児の少年コーリアが寂しくヴォルガ河の上に登る月を眺めながら成長したこと。「月よみの神」については『月と不死』の中に「日本に於いて、この月の擬人神は「ツクヨミノミコト」「ツクユミノミコト」といふ名を持ってゐる。尚、このtukujumiは「時を算へる者」を意味することは疑いのない処である」とあり、ネフスキイが成人するまでの歳月をヴォルガ河のほとりに過ごしたことの比喩である。
⑧~⑪は岡井の朗読会と日常 ⑧「今日十月六日」とは何であろうか。いろいろ思いめぐらした後で、作者が朗読会に参加した日であると思い至った。「月」を題詠とした朗読会である。その日の月齢は二十四・六、月の出はは深夜二時ごろ、月の入りは十二時過ぎ、三日月のような姿の有明の月である。その細い有明の月が今ちょうど沈んでいく頃かと想像する。岡井のやや不安定な淡い心情がみえる。⑨これも朗読会の日、「空に眼のように細い昼月」が出ている今、その月の下で「月」について我らは語りあっている。昼月の今にも消えそうな不安定な光、月の下で語る我らも明日をも知れぬ淡い命なのだ。⑩ネフスキイが育った「ルィヴンスク」を地図で探したが見つからないまま、ゴミ出しに深夜の道に出た。岡井の朗読会前後の生活がここに甲斐間見える。⑪今日の「月の出は午前一時」と聞いたが、深夜外に出てみたら雨に濡れて芙蓉の花が、咲き残っていた。ふと目にした周りの風景により平和な日々をありがたく新鮮に感じたに違いない。ここにはルィヴィンクスという地名のみがみえるが美しい「芙蓉の花」にもネフスキイの悲運の影を見ているような気がしてならない。
⑫~⑯はネフスキイの後半生 ⑫ネフスキイの研究が日本及びアジアに与えた功績や影響が深く浸透していることを表現したもの。惜しい学者亡くしたものである。それも気づかないうちに。⑬日本において民俗学を研究した優秀な学者は帰国して、スターリンの統治する官憲によって、逮捕、殺された。まるで、殺されるために帰って行ったようだ。⑮「月は不死」=ネフスキイの著書『月と不死』を句点を用いて特に強調。その『月と不死』を書いたコーリアがロシアに帰国後逮捕、処刑された。有能な才能を理解せずに、逮捕、窮死させた「政治とはなんだ」。まったく恐ろしいことだと岡井は激しく糾弾する。これは岡井が訴えたいことの第一のテーマである。現在のロシアのウクライナへの軍事侵攻を目の当たりにして、突然平和を乱された一般の庶民の気持ちと同化する。権力の専横なふるまい、専断による犠牲の恐ろしさをいまも危ぶまねばならない。古代の中国で、「苛政は虎よりも猛なり」といったのは孔子である。政治の体制の質を問う岡井の絶唱を忘れないようにしたい。⑯ネフスキイは見事な日本語を話し異人と言われることを嫌った。奄美群島、沖縄、日本各地への民話の採取、台湾を巡った。そこには研究熱心なネフスキイの真摯な態度があった。ネフスキイの優れた学問が政治のためにもぎ取られ殺されてしまった人への哀悼の気持があふれる。「政治とはなにか」心をえぐる悲痛な問である。
⑰~⑳は岡井の日常を顧みて ⑰思えば五年前にもネフスキイの『月と不死』を愛読し、沖縄への旅に携行し、飛行機の中でも読んだ。 ⑱なぜ秋篠宮邸が出てくるのか戸惑った。秋篠宮邸を持してから、『月と不死』を読んでみると、本の内容が新しい説のように感じられた。旧と新、見方が五年前とは格段の広がりを持って読めたということか。
⑲ここから「月」にちなんだ歌が配列されている。これは岡井の朗読会へのこだわりだろう。京都に旅に行ったが十二夜の晩は土砂降りの雨だった。古都の月を見るつもりで行ったのだが月は見られず、昏々と静かな雨の夜を獣のように眠った。⑳十三夜の月が出ているはずだが、故人を偲び小川を渡り、親友であった塚本邦男の墓に参拝した。歌の友を思い下ばかり向いて月は仰がなかった。
㉑~㉓は待てど帰らないネフスキイ ㉑「雨月」=雨夜の月、名月が雨のためにまったく見られないこと。昨夜は仲秋の名月、十五夜だったが月は雨のために雲に隠れて見えなかった。今日は煌々と十六夜の月が地上を照らしている。遠くネフスキイの流刑地シベリヤの碑をも月は煌々と照らしていることだろう。月がこうこうと照らせば照らすほど碑となっているネフスキイとの距離感、隔たりを感じて寂しく思う。(一九六〇年にネフスキイは名誉回復されたが、それでも死者は帰らない)㉒シベリヤの泥の中から生還した人・石原吉郎もいたのに、なぜネフスキイは帰らないのだ。㉓すべるように月が上ってくる十七日の月。再生を繰り返す月は「不死」だというけれど、立待月のように立って待っているのにその人は帰ってこない。改めてネフスキイの命を惜しむしみじみとした気持ちが伝わってくる。
四 結論
この二十三首は朗読会のための題詠「月」というテーマがはっきりしていたために、場の力を借りて読み進めた。岡井の生活とネフスキイの生涯と『月と不死』の内容が整然と円環のように構成され、それぞれの歌にはメッセージの濃淡はあるけれど、ネフスキイというすぐれた学者が、時の政治家の無知な暴走によって殺された悲劇が繰り返されがちであることを糾弾。狭量な政治家により今も平和が乱され、多くの人を混乱へ陥らせている。岡井の訴えたこと「政治とはなに」を現代においても問いかけ続ける重い課題を抱えた作品である。
・人類つて無限に苦しい 殺すなよ半月の下の草原なんかで (「ネフスキイ」p33)
現在のロシアーウクライナ情勢を重ねて読んでいる。これ以上戦火が拡大しないように祈るばかりである。平和が続きますように。
参考文献
・『ネフスキイ』 岡井隆 書肆山田
・『月と不死』 関正雄編 平凡社
(参考資料)
〇『ネフスキイ』の巻末の歌と詞書の部分を少し長いが抜粋する
ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ネフスキイ(愛称コーリア)の民俗学の論文「月と不死」をよみてさまざまに心遊べる歌二十三首 あはせて、シベリアにて死にし、N・ネフスキイの霊に捧げる
①不死といふは死なないことだ人類のあくがれとして月満つるころ
②月は人のうしろを照らし、太陽は前を照らすと人は言ひしを
N・ネフスキイ。二十世紀に生きて死んだ東洋学者。流暢な日本語で文を書き、柳田國男らから「美文過ぎる」とからかはれた。たとへば「満月の夜流れ入る憂鬱な考へに閉ざされ人類永久の悲劇である死を思ひ、明るい月の光、姿にこの解釈を求めようと努める。」などと書いたコーリア。「毎月月が大空から姿を消して三日経て再び現れる現象は死者がこの間に復活する思想を生ぜしめた。種々の民族は月の斑点も同じく不死の思想と何らかの関係を有するものと考へた」とネフスキイは解いた。ロシア正教の教会に育ったコーリアは、イエスの三日後の復活の神話を月の不死と結びつけようとしたのかも知れない。
③ネフスキイ伝説読みさしのまま書き出した。読みさしのままがいいこともある
④読みさしは心を家に残し置き家を出る旅 待ちがてぬ月
⑤読み残したる部分にはよみ終へし頁を照らす月光がある
⑥ヴォルガ河右岸の港ルィビンスクそこの教会の小部屋のコーリア
⑦父母のなき少年コーリアの見しヴォルガ満ちては欠くる月よみの神
⑧今日十月六日は月齢二十四・六 細き昼月が沈みゆくころか
⑨空にありて眼のやうに細からむ月の下にて月語るわれら
⑩ルィビンスク地図にたしかめ得ないままゴミ出しに行く深夜の道へ
⑪月の出は午前一時ときく今宵芙蓉が濡れてまだ咲いてゐた
⑫ロシアから東洋学がやつてくる深く重厚に気付かぬうちに
⑬この稀有な日本学者は帰りゆきぬスターリンによって殺さるるため
⑭大ロシア人なる誇り大ロシアへ帰りゆきしを殺され果てぬ
⑮月は不死。そのコーリアをシベリアに窮死させたる政治とはなんだ
宮古群島に伝はる伝説によれば太古、妻ー即ち月の光は、夫❘即ち日の光よりはるかに強く明るいものであつた。ところが太陽は月の明るさを羨んだ。ある日、月を泥の中へ突き落したのだ。泥の中でもがいてゐる月を救ったのは、通りかかった農夫であつた。かれは二つの水の入った桶をかついで通りかかり、その桶の水で、月の泥を洗つてやつた。今、満月の夜月の表てにあらはれる斑点模様、あれは、水をかついだ農夫である。かれはそのお礼として月の世界へよばれて、今もそこに滞在して水を搬んでゐる。(ネフスキイの採取した民話による)
⑯異人さんと呼ばるるを嫌ひ見事なる日本語でかれは島々わたりぬ
⑰五年前われは沖縄へ行きしことあり『月と不死』空にてよみつつ
⑱秋篠宮邸を辞しよみ続くすべて新しき説のごとしも
おどろいて思ひおこす。今年中秋の名月の頃わたしはどこにゐたのか。
⑲十二夜の京都どしやぶり月も見ず昏々とねむりたりし二夜は
⑳十三夜小川をわたり塚本大人が塚に参りぬ 空も仰がず
スターリン死後、ネフスキイの仕事は再評価された。即ちいはゆる「名誉回復」つて奴だ。しかし、
㉑かうかうと雨月ののちの十六夜の月照らせども 流刑地の碑
シベリヤをへて詩人復活を遂げたわが石原吉郎を思へば、
㉒雪どけのどろにまろびてまた起つは石原吉郎たそがれの靴
㉓すべり来て立待月は「不死」なりといふといへども人は帰らず
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