所沢の民話の地

2020.5.18

所沢の民話の地を行く
所沢にも民話や伝説が残っている。その地を訪ねて民話の世界に浸りたく思っていたので、自転車で回ってみた。
1山口の来迎寺:伝説 車返しの弥陀 行脚の弥陀 2山口の桜淵地蔵尊 3久米の勢揃橋 4北秋津の持明院:河童の詫証文 行程約3時間 自転車の走行を含め8000歩。
民話は「所沢史話」(所沢市教育委員会発行)を参照した。

1.山口の来迎寺
 
 来迎寺 車返しの弥陀 その昔、藤原秀衡は奥州に城を構え、奥羽地方一帯に勢力を持っていて、どの戦にも負けたことがありません。これは秀衡が運慶というひとの作った阿弥陀三尊を守り本尊として、日夜拝んでいるその御利益によるからです。これを伝え聞いた時の将軍源頼朝は、欲しくてたまらずこの阿弥陀三尊をぜひ貰いたいと、秀衡のところに何度も遣いを出しました…… ようやく府中の近くまで来ましたところ、車が急に重くなって動かなくなりました……
来迎寺に収まった阿弥陀如来さま、なんと夜遅く厚く信仰している老夫婦のところに行き一夜の宿を借りているのです。
2.桜淵地蔵尊 今からおよそ200年ほど前、山口の町谷の かね善という紺屋があり、職人が12,3人もいて手広く営業していました。かね善の主人は努力家で、腕一本で財産を作った人だから、家業のほかは何も考えません。ところが息子の吉之助はちょっと上品な人柄で、村の娘たちの話題に上る青年でした。一方同じ山口の新堀に住む左右衛門の娘おりんは、「今小町」と呼ばれる評判の娘でした。この二人は仲良くなり、おりんはかね善に嫁入りし、近所の人々からうらやましがられました。ところが……

 やがて淵から赤子の死体が流れてきて……おりんは気がくるってしまい……妹で子守のおくらは桜淵へ身を投げてしまいました。
何とも悲しい結末です。(水量が少ないように見えますが、柳瀬川の上流に狭山湖ができたためと考えられます。昔は水量豊かな川であったと考えられます。)
 3勢揃橋 新田軍が久米側の戦いに際し勢ぞろいした、勢揃橋。
 4持明院 河童の詫証文 北秋津持明院のすぐ南、久米との境に柳瀬川の深い淵があり、「曼荼羅淵」と呼ばれていました。そしてここは、井草の「袈裟坊」・笹井の「竹が淵」と共に、河童の住んでいるところでした。……
ある日のこと、久米の馬子が馬を川岸の草むらにつないでおいたところ、馬が突然悲鳴を上げました。驚いて駆けつけてみると、10歳ぐらいの子供の頭ほどある河童が、馬の腹に食いついています。きっと人間の肝がどうしても手に入らない河童は、せめて馬の肝でもと食いついたものでしょう。そこで馬子は大急ぎで馬を草むらから引き離し、持明院の坊さんに説教してもらいました。そのとき、河童は涙をこぼしながら、「これからはこの土地の人に決して悪いことは致しません」という意味の証文を坊さんに渡して許してもらいました。
(後日談もあるが河童の話は楽しい。川に不用意に近づくなという教訓だろう。)

 持明院 曼荼羅堂 弘法大師が天長年中(824~833)行脚の折に当地に来て、大きな木の下に宿りました。すると夜中に深い淵の中から青龍が現れ、曼荼羅の巻物を授けました。そこで大師は、阿弥陀如来の像を彫刻し、また小さなお堂を作って、曼荼羅と一緒に収めたということです。

コメント

このブログの人気の投稿

さくらタウンに行てきた!

1月の植物図鑑

邪気を払う「菊枕」を作る