『おらおらでひとりいぐも』 若竹千佐子著 読後メモ
2019.1.8
『おらおらでひとりいぐも』 若竹千佐子著
河出書房新社 2017.11.30刊
芥川賞受賞作で題名が宮沢賢治の「永訣の朝」の一説を引いていることから、受賞直後から本書を読みたいと思っていたのだが、やっと読み終えることが出来た。
74歳の桃子さんの独り言から内面を丁寧に描いているが、桃子さんの年齢に近い現在の日常は、主人公の桃子さんに似た生活で有り、感情移入できるところが多かった。備忘のために共感したところを、メモに残した。
①人の心は何層にも渡る、感情がある。
p16~人の心は一筋縄でいがねのす。人の心には何層にもわたる層がある。うまれたでのあかんぼの目で見えている原基おらの層と、後から生きんがために採用したあれこれのおらの層、教えてもらったどいうか、教え込まされたどいうか、こうせねばなんね、ああでねばわがぬという常識だのなんだのかんだの、自分で撰んだと見せかけて撰ばされてしまった世知だのが付与堆積(ふよたいせき)して、分厚く重なった層があるわけで、つまりは地球にあるプレートどいうものはおらの心にもあるのですがな。おらしみじみ思うども、何事も単品では存在しね。必ず類似模倣するものがあるわけで、地球とおらも壮大な相似形を為すのでがす。
②この世にはどうすることも出来ないことがある。
p22L10~つまりは何だ。おらは思い知らされだ訳よ。生ぎでぐのはほんとは悲しいごどなんだど。それまでのおらは努力すれば何とかなる、道は開けると思ってだった。
そういうものの信頼の上に、おらどの生活は成り立っていだ。今はたどえ暗くあったどしても、今を耐えて未来に頼むどいうか、だども、あのどぎがら。〈略〉おらは重々分がったのさ。この世にはどうにも仕方がない、どうしようもねごとがあるんだ。その前では、どんな努力も下手なあがきも一切通用しねてごどがわがった。それがわがったらば、手に入れるためだの、勝ち取るためだのにあくせくする生ぎ方が、まんで見当違いなごとに力ば入れでるように見えでしょうがねのす。まぁ人間の無力を思い知らされたわげで、この世は絶望づ壁がある。したども一回それを認めでしまえば、これで案外楽でねがと、おらわ思ったわげで、そこに至るまでの身の処し方を考えればいいどいうごどになる。あれがらおらはすっかど、別の人になってまった。
あのどきの前と後ではおらはもう全然違う。おらは強くなったさ。おらは人生上の大波をかっ食らったあどの人なのよ。二波三波の波など少しもおっかなぐねんだ。ただ祈って待でばいいんだ。
③見るだけ、眺めるだけの人生であった。
p65L12~そうだった。あのときも今もおらは人を盗み見している。盗み見るというのが人聞きが悪ければ眺める、さらにかっこ付ければ、観察する、鑑賞する、傍観する。(略)見るだけの人生が。が今となってはそんなことはどうでもいいような気がする。しかし広がりのない生き方だった。見るだけ、眺めるだけの人生なのだもの。自問して自答するだけ、問いの自己内消費というか。プラマゼロというか。流れの淀みにあるような生き方だ。人に何ら働きかけない、ましてや影響を及ぼすこともない。人に話しかけられないのも仕方がなっかった。
人に関わる余地がなかったのだ、見るだけで自足した人生だもの。関わった途端おらは意識して別の人になってしまっただろう。おらのような人間はさびしくったて仕方がないのだ。
④人の幸せのために自分を犠牲にする。ひとのために生きるのは苦しい。
p88L13~……おら思うども、ひとのために生ぎるのはやっぱり苦しいのす。伸び伸びど羽根を広げたい。空を自由に飛び回っていだい。それは誰もの本然の欲求だど思う。んだども自分の前になんぼ好ぎでも人がいる。その人に合わせて羽をおりただみその人に合わせで羽を動かす。くるしくなくてなんだべが。
は、は、おめだ何をかだる。うづくしいもの、優れたものに身を捧げ愛に殉じる生ぎ方をどうしてこうも避難でぎる。有難く思わねで何とする。
自分よりも他人を大事にするごど、それが愛だどいう。ひたむきな愛だのとほめそやす。
自分のエゴに打ち克って人の幸せのために自分を犠牲にする、それがほんとの愛だど、正しい生ぎ方だど信じ込ませる。
⑤自我を強く持って,自分のために生きることが大切。
p90L1~おら……もっと自分を信じればよがった。愛に自分を売り渡さねばよがった
おらもっと自我を強く持って(略)自我どは結局、自分主権ってごどだべ。これが何より尊がったんだな。よぐよぐ考えれば当たり前のごどだ。
⑥従順に生きて内面をないがしろにしてきた自分を認め慰める気持ち。
p105L12~土を踏む。思うさま踏む。歩くほどに喜びが増してくるのは、やはり自分は山の人間なのだろう。ふわりと浮かんで消えていく、そんな思い付きともいえない思い付きが楽しい。山の人、郷里を離れてもう五十年になるのに、手足に深く刻まれた山の記憶が、今こんなに自分を喜ばすのに違いない。(略)歩くほどに抗うほどに削がれる心地がする。削がれ削られたてらてらの底には、猛々しく唸る獣がむき出しになっている。旧知であるにもかかわらずろくな挨拶もせずやり過ごしてきた長い年月。今やっと、やあやあと声をかけ、うふうふと笑う。おだやかで従順な自分は着込んで慣れた鎧兜、その下に凶暴な獣を一匹飼っていた。そうでなかったかい。獣を腕に包んでよしよしでもしてやるか。ずっとないがしろにして見て見ぬふりを決め込んだのに、腐らずによく生きていてくれた、そんな気持ちに一瞬なりましたとさ。
猛々しいものを猛々しいままで認めてやれるなら、老いるという境地もそんなに悪くない。
⑦人生で一番つらく悲しかったときが一番充実していたと思う。
p110L13~それでは一番輝いていたのはいつだったろうと歩くすさびに考えた。
子供の時分、周造と出会った頃、小さな子供二人を抱えて懸命に生きていたころ、立ちどころに桃子さんに笑みがこぼれる。どれもこれも懐かしくて暖かい。桃子さんにとってみれば珠玉の日々。でも違う。かすかに首を振って、あの頃ではないと思った。
幸せで満ち足りていたと言えば確かにあの頃なのだろう。だが、これまで生きてきた中で心が打ち震え揺さぶられ、桃子さんを根底から変えたあのとき、周造が亡くなってからの数年こそ、自分が一番輝いていた時ではなかったのかと桃子さんは思う。平板な桃子さんの人生で一番つらく悲しかったあのときが一番強く濃く色彩を為している。
⑧おらの思っても見なかった世界があることに気づく。
p114L11(亭主が死んで初めて、目に見えない世界があってほしいという切実が生まれた。略)体が引きちぎられるような悲しみがあるのだということを知らなかった。それでも悲しみと言い、悲しみを知っていると当たり前のように思っていたのだ。分かっていると思っていたことは頭で考えた紙のように薄っぺらな理解だった。自分が分かっていると思っていたのが全部こんな頭でっかちの底の浅いものだったとしたら、心底身震いがした。
もう今までの自分では信用できない。おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも。
切実は桃子さんを根底から変えた。〈略〉桃子さんが抱えた秘密、幸せな狂気。桃子さんはしみじみと思うのだ。悲しみは感動である。感動の最たるものである。悲しみがこさえる喜びというのがある。〈略〉p116L2もう迷わない。この世の流儀はおらがつぐる。
亭主が亡くなってからというもの、現実は以前ほどの意味を持たなくなった。こうあるべき、こうせねば、生きる上で桃子さんを支えていた規範は案外どうでもいいものに思えてきた。現実の常識だの約束事は亭主がいて、守るべき世界があってはじめて通用する。〈略〉おらはおらに従う。どう考えてももう今までの自分ではいられない。誰にも言わない、だから誰も気づいていないけれど、世間だの世間の常識だのに啖呵を切って、尻っぱしょりをして遠ざかっていたいとあのときから思うようになった。
⑨死はすぐそばで息をひそめて待っている。
p140L6~あのどきおらは分がってしまったのす。死はあっちにあるのでなぐ、おらどのすぐそばに息をひそめで待っているのだずごどが。それでもまったぐといっていいほど恐れはねのす。何如って。〈略〉どんな痛みも苦しみもそこで一反回収される。死は恐れで亡くて解放なんだなす。これほどの安心ほかにあったべか。あんしんしておらは前を向ぐ。おらの今は、こわいものなし。なに、この足の痛みなぞ、てしたごどねでば。
⑩おらはこれからの人だ。
p142L9ただ待つだけでながった。赤に感応する。おらである。まだ戦える。おらはこれからの人だ。こみあげる笑いはこみあげる意欲だ。まだ、終わっていない。桃子さんはそう思ってまた笑った。
感想
○女性はきっと家庭を守るために時間が取られてしまいがちなので、「細く長くとにかく粘り強くやりたいことを深めて生きるしかないのよ」などと、慰められ元気づけられ、それを信じて生きてきた。
桃子さんが自分を殺し周造さんに尽くしてきたことも同姓として理解できるし、悩みや独り言の内容にも共鳴することが出来る。そして家庭から自由になった今「おら、おらで、ひとりいぐも」と覚醒した決意表明をしたことを、うらやましく応援したい気持ちでいっぱいです。
これから桃子さんの本当の人生が始まるのです。やっと自立した人として考え感じ、行動できる時間ができたのです。(日本の女性は老後になって一人の人間になれるのですね)
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