所沢市下山口散歩1(仏蔵院、荒幡の富士)
2018.10.5
先日西武狭山線の下山口駅から周辺をぶらり散歩をしました。
天気は薄曇りで散策にはまずまずの陽気でした。
王辰爾山 佛蔵院

(寺の縁起より)佛蔵院は狭山湖の湖底に沈んだ勝楽寺村に百済からの渡来した王辰爾一族の人々が、阿弥陀如来・歓喜天をまつり勝楽寺聖天院を建立したとき霊亀2年(西暦716)に始まります。
王辰爾山の「王辰爾」(おうしんに)について調べてみた。「王辰爾」は6世紀中ごろの百済からの渡来人。「船首王後墓誌」や「日本書紀」「続日本紀」に確認される名前らしい。「日本書紀」欽明14(553)年条には蘇我稲目の下で王辰爾が船の賦を数え録し、その功で船長となり船氏の姓を与えられたとする。他にも事績の記載あり。
寺の創建された(西暦716年は駿河・甲斐等7か国に居た高麗人1799人を入間郡に移住させ、高麗郡を作った年でもある。)勝楽寺周辺にいた高麗人は高麗郡には移住しなくてもよかったのだろうか。(入間郡も高麗人により開拓されたといっても言い過ぎではない。)
*大正・昭和の時代に至り東京の水源地・山口貯水池(狭山湖)増築のため、佛蔵院は昭和4年(1929)に勝楽寺村を離れ、現在地・山口に移築された。
勝楽寺村から移築された石碑


右の2つの石碑は寺の前庭と後ろに置かれ向き合い、佛蔵院に結界を張るために向き合う将軍碑と愛宕観音碑
*佛蔵院本堂内部の様子
美しい欄間8枚のうちの2枚
石川文松筆の板戸


石川文松は寛政10年(1798)青梅に生まれ、絵師を志して谷文晁に師事、生活を共にして画技を学びました。晩年勝楽寺村や三ケ島村に寄宿し、絵師として筆をふるいました。
(市内山口観音に「六歌仙絵馬」、妙善院に絵と墓あり)
*荒幡の富士については2に続く。
先日西武狭山線の下山口駅から周辺をぶらり散歩をしました。
天気は薄曇りで散策にはまずまずの陽気でした。
王辰爾山 佛蔵院
(寺の縁起より)佛蔵院は狭山湖の湖底に沈んだ勝楽寺村に百済からの渡来した王辰爾一族の人々が、阿弥陀如来・歓喜天をまつり勝楽寺聖天院を建立したとき霊亀2年(西暦716)に始まります。
王辰爾山の「王辰爾」(おうしんに)について調べてみた。「王辰爾」は6世紀中ごろの百済からの渡来人。「船首王後墓誌」や「日本書紀」「続日本紀」に確認される名前らしい。「日本書紀」欽明14(553)年条には蘇我稲目の下で王辰爾が船の賦を数え録し、その功で船長となり船氏の姓を与えられたとする。他にも事績の記載あり。
寺の創建された(西暦716年は駿河・甲斐等7か国に居た高麗人1799人を入間郡に移住させ、高麗郡を作った年でもある。)勝楽寺周辺にいた高麗人は高麗郡には移住しなくてもよかったのだろうか。(入間郡も高麗人により開拓されたといっても言い過ぎではない。)
*大正・昭和の時代に至り東京の水源地・山口貯水池(狭山湖)増築のため、佛蔵院は昭和4年(1929)に勝楽寺村を離れ、現在地・山口に移築された。
勝楽寺村から移築された石碑
*佛蔵院本堂内部の様子
格天井 |
石川文松筆の板戸
(市内山口観音に「六歌仙絵馬」、妙善院に絵と墓あり)
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