与謝野寛短歌選集 「植物」を詠む 14 番外編「草」

2018.7.17

与謝野寛短歌選集 平野万里編14

与謝野寛が詠んだ「植物」の歌の番外編として、「草」を詠んだ歌が数多く見られその情感に感動したので、その幾首かを取り上げ紹介したい。本文中のpの数字は本文出典頁。

 与謝野寛は「草」について、単なる雑草という扱いではなく、心を共有する友に対するような憐みの情が感じられる。一般に信じられているような強い鉄幹ではなく「自分は小さい人間」と卑下するようなところがある寛は、虐げられたもの、小さいものに目を向け共感する。寛の内面は優しく孤独なのだろう。優しさゆえに弱者の痛みを感じ、雑草に共鳴共感する。そのような作品に触れてみたい。

    荒らかに刈ることなかれ草とても人にて云えば己がともがら
    枯草にみどりを少し打ちまぜて韮山の土ふくらめるかな
    太陽は小さき草を見失ひやうやくにしてめぐりこしかな
    二葉より紫しつつ羨まれ切らるる運をもてる草かな
    しら露も高き草より散るときは代わりて泣けるけしきなるかな
    高千穂の坂に幾たび我すべるその沙に立つ草に如かぬか
    みずからの乏しきことを知り盡くし山に憐れむ雜草の花

    109 手荒く草を刈ることをするな。草だって人にたとえて言えば(身近な)友達のようなものなのだから。草を手荒く扱うことに抵抗感を感じ、痛みを感じる優しい人柄が読み取れる。


    113 枯草の中に芽吹きが始まり緑の葉が少し交じってきた。韮山の土は春の息吹とともに、ふかふかと土も柔らかくなって膨らんだような気がする。早春の景を視覚と柔らかさという触覚で捉えた繊細なやさしさが感じられる。

    126 太陽は早春に目覚めた小さな草に日をたっぷりと浴びせていたが、成長の早い草に隠されて見えなくなってしまった。ようやく季節は巡り、また早春に芽生えた小さな草と巡り合うことができた。小さな草・目に見えないところにも気配りをして、春に巡り合えた喜びを表現する。

    127 芽の出た二葉のころから美しい紫色をしているともてはやされていたが、美しいゆえに切り花にされたのだろうか途中で切りとられてしまう運命を持っているはかない草だった。(雑草として見向きもされず、放っておかれ丈高くなり①のように刈り取られたり、美しいがゆえに使用され切り取られたり、雑草ゆえの苦労や運・不運などに思いをはせている寛、扱われ方に理不尽を感じ、やりきれない思いを常に感じているのだろう。)いったいこの草はどのような草なのだろう。

    173 朝、白露が背の高い草から零れ落ちる様子は、私の悩みを感じ取って代わりに泣いてくれているような風情である。

    194 高千穂の坂道で、幾度も滑って転んでしまった。その山の砂地に立っている草の様ではないか。(幾度も滑って転んでいる様子を戯画化してみせ、その砂山に宿る草の悲しさと寛の置かれた現状のもどかしさが感じられて切ない)

    247 自分の人望の乏しさを知り盡しているので、厳しい山の斜面で懸命に咲いていても認められない雑草に(自身を重ねて)共感し、あわれと思う。(懸命に努力をしてもなぜか認められない、自己への憐憫の情と美しく咲く雑草の花への哀憐)

雑草に自己を投影して、認められない不遇を嘆く。他人に評価されない忸怩たる思いも共感するところである。完璧でないもの、小さいもの、大きすぎるもの、粗雑なもの、みんな自己の内面に潜む不完全さを押し隠しているものをあらわにされた気分だ。あの強い鉄幹が寛となって、弱者の心を代弁する。雑草に仮託して弱いものに心を寄せ、努力しても曲解されたり認められないものの悲しみや悔しさをしみじみと詠む。
こんな優しい寛だったのだと改めて短歌を読み、「草」に寄せる情感が優れていると感じたのでこの場で紹介したくなった。





⑥に関連して追加

194 踏むたびに高千穂の沙くずれきぬ我を拒むや我を試すや
194 高千穂の坂に幾たび我すべるその沙に立つ草にしかぬか

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